心理学振りました

もろもろ書き記したいところだが、根本的なところをまず書くことにした。

 

この文章は特に大嶋信頼先生の著書、他心理学や自己啓発の本を参考に書いている。とりあえず概念的なところが伝わればいいと思うので間違いは気にしない。後で修正する。

 

私は大嶋信頼先生の著書をこれまでたくさん読んだのだが、そこに載っている情報は社会、または個人の人生、生活を好転させる上で、非常に重要で有益な情報だと思っている。というか、結構多数の人に周知されているしその効用も評価されている。心理系の本を漁っていれば、いずれ必ず辿り着くと思う。

 

しかし、ネットを見ていて、いまだにその広がりが遅い、と感じる。本当に必要な情報が届かず、苦しんでいる人を見るのは歯がゆい。

なので、以前にも漫画で紹介したが(こっち先に読むとわかりやすい)、https://twitter.com/Fuji_Yomi/status/928557262045560834

改めて文章で書くことにした。



人がなぜ問題行動を起こすのか、その理由について。

問題行動とは、セクハラモラハラいじめネット炎上等々。加害者と被害者の関係が生まれるもの全て。



まずざっくり最初に解説すると、

①人は自身の死を感じた時、トラウマができる。

②そのトラウマを回避するために様々な問題行動を起こす。

 理由→錯乱しているため。または支配者に動かされている。

   →感情(罪悪感)を欲している。

 

何故その問題行動をやめないのか?

   →恐怖に駆られ依存しているから。



まずトラウマとは何かという話をしよう。

 

  • トラウマ
    トラウマとは死の恐怖だ。ざっくり言うと自分の人格、存在、性、嗜好等々を、ショックで記憶に刻み付けられるくらい否定された、あるいは否定されたと感じるような出来事があった、というもの(分かりやすく私の解釈を並べただけなので正確な定義は自分で調べてね)。

(車にひかれたとか、火事で大やけどをしたとか、直接、肉体的なものもあるが、今回語るのは精神の死について。)

わかりやすいものであれば、”いじめられた”、”暴力を振るわれた”といったところだろう。しかし、必ずしもそういった、人から見て大きく、”わかりやすい”ものばかりではない。

例えば、子供が、何か粗相をして母親がしばらく口をきいてくれなかった、というもの。
大人が聞いたら「何だそれくらい?」と思う程度のものでも、それは大きなトラウマになりうる。

子供にとっては親、庇護者に嫌われることは”死”に直結している。なぜかというと、子供は無力であるため、親に放置されると死ぬからだ。生物的に、親に餌と寝る場所を与えられ、庇護されないと生きていけない。
ので、嫌われたら一大事なのである。自分の命は親に委ねられている。もし機嫌を損ねて餌をもらえずにいたら、自分は死んでしまう。だから、親に好かれること、機嫌を損ねないことは文字通り死活問題なのだ。
親や周囲からの無視、不機嫌は、子供にとって”死”に値する、かなり大きな恐怖として刻まれる。

大人から見て小さな”猫”でも、子供にとっては自分と同じだけかそれ以上の大きさの”ライオン”に見える。
これは子供のみの話ではなく、大人にとってもそうだ。一般的にどうでも、他人から見てどうでも、それがどんな些細なものであっても、当人にとって大きい出来事であったなら、トラウマになりうる。
特に、元々が人の感情に敏感なタイプであった場合なら何がトラウマになるかはわからない。

まず、第一の要点は、どんなものでも当人にとって重大な出来事であるならば、

”死”に匹敵するトラウマになりうる、ということ。



  • トラウマができると何が問題なのか?

どんなものでもきっかけとなり、トラウマができる。

それはわかった。で、トラウマができるとどうなるのか?

 

例を挙げるとこのような状態になる。

(この中には実体験も含む。)

 

・何かに対して固執したり、執着したり、依存的。

・非常に心が落ち着かない。

・些細なことを気にしてしまう。

・気分の浮き沈みが恐ろしく激しい。

・なんでも自分に対する不満に聞こえる。

・誰か、何かに対する批判的な視点が抜けない。

・攻撃的な気分になる。他者に対する攻撃性が増す。

(実際攻撃する)

 

等々。実際にはこれ以外にももっとこまごまとしたものもあるだろう。

で、この中で特に重大な問題なのは「攻撃的な気分になる」というところだ。

 

近頃社会の問題として大きく挙がっているのはパワハラとセクハラだが、その問題のすべての原因はここにある。



そもそも、人が人を攻撃するのはなぜか?

 

それは、自分が不幸だから。自分が孤独だから。

それに尽きる。

 

考えてみよう。お金持ちで清潔な家に住み、やさしい友達がいて、あたたかな家庭があり、溌溂と仕事をしている人間が、人を攻撃するか?しない。

 

「やーーい、お前は貧乏人だな!」

「お前には友達がいないな!おれはこんなに友達がいるぜ!」

などと言うか?言わない。

なぜか? 現時点で幸福だから。

 

”私”の価値を他人と比べない。

おいしいものを食べておいしいと感じる。友と遊び楽しみ、喜ぶ。

その”今”が充実しているから、その時間が幸福だから、攻撃するという発想にまず至らない。その必要がないからだ。

他人の不幸を必要としないのだ。

 

自分の凄さをたたえた看板を作る時間があるなら、今の幸福を重ねる方に時間を費やす。その時間自体を楽しんでいる。

 

もし、そんなにも満たされた条件で、他人をバカにしたり他人に拳を振るう人を見たら、

『この人の心には何か(孤独)がある…。』と思うことだろう。

で、実際、振るっている人にはもちろん孤独がある。

 

その孤独とはトラウマのことである。



  • トラウマからの”逃避”

トラウマというのは本人にとって”死に値する恐怖”だ。

その恐怖とすぐに向き合うことができればそれは解消されるが、すぐには解消できない場合も多い。

例えば虐待だが、親に殴られる恐怖を子供に向き合えと言ってもできないだろう。

 

恐怖と向き合うにはまず、自分の安心と安全が必要なのだ。保護されて安全な場所にいるというならいざ知らず、一つ屋根の下、子供と大人という絶対的に力の差があり、自分が抵抗できない状況で安心しろというのは無理があるし、

今日その恐怖に向き合えても、明日以降も殴られ、新たに恐怖が蓄積され続ける状態では、

根本的な解決に向かわない。というより向かえないのだ。

そもそも、抵抗できないような力関係と状況であるから”死に値する恐怖”になるわけで。



とすると、人はそのようなトラウマにどう対処するか?

現時点では、逃避するしかない。見ないふりをする。



言ってしまえばトラウマは”レベル99”の恐怖の記憶なのだ。

実際相手がレベル99ではなく40ぐらいの敵でも、

レベル1しかない幼い子供には絶対的な強者としてうつるし、到底倒せるものではない。

 

だから、”逃げる”ことを選ぶ。

 

ここでは幼い子供と表現したが、

大人から見てもレベル99相当の敵(記憶)が現れ、

それから逃げる、ということはままある。



例えば、お化け屋敷にいっても、「あー怖かった」で済むのは、きちんと記憶が処理されたからだ。

それは「あくまでこれはエンターテイメント、フィクションである」という意味付けを、自分の中で、安心できる場所で行えるからである。その人はこれからも何度もお化け屋敷で遊べることだろう。これが通常の記憶処理だ。

 

しかし、

「お化け屋敷に入ったら、本物の刃物を持った人間がおり、お化け屋敷を出ても追いかけまわされた」、という経験があった人はどうだろう?

お化け屋敷というものに、今後近づけるだろうか?いや、無理だろう。

それがどれだけ確率的に低い、通常あり得ないことであったとしても、その記憶が想起されてしまい、二度と近づけまい。少なくとも、その恐怖体験(記憶)を払拭しない限りは。

 

もし、

「あれは稀なケースだから!今度行く場所ではきっと同じようなことは起こらないだろう!大丈夫!」などと踏み切れるバカがいたらいっそ尊敬する。確実にどっちかの意味でヤバイやつだから心配もするが。



同じ例えで続けよう。

 

お化け屋敷で危険人物に追いかけまわされる、というレベル99相当の出来事があったAさんは、当然トラウマができた。

そしてそれはレベル99の出来事であったため、今の自分には処理することができないものであった。

 

Aさんはその記憶に触れたくないので、お化け屋敷やそれに類するものがなるべく目に入らないようにし、遠ざかることにした。

(Aさんはその記憶を覚えていたが、あまりにもショックが強すぎると、その記憶(出来事)自体を忘れてしまうこともある。)


とにかく人は、「敵が強すぎる、怖すぎる」という場面から逃げ出し、”その記憶を見えないところへ追いやる”という形で対処する。

怖すぎて処理できない(倒せない)ので、”一時的に”忘れてしまおうということだ。


すぐに対処できなかったトラウマ(死の恐怖、その出来事の記憶)はどうなるのか?

当然無くなるわけではない。

「トラウマ.zip」となり心の深層にしまわれてしまう。

そして、この状態が人の”倒錯”した行動を引き起こすのである。



  • トラウマが記憶の深層にしまわれたけど?

さて、トラウマが心の深層にしまわれたことで、何が起こるのか。

”攻撃的になる”ということを書いたが、それはなぜか?

 

まず、心の深層にしまわれるというのは、通常の処理ではない。

この状態は非常に厄介なものなのだ。

 

先に述べたように、通常の記憶処理であれば、きちんと整理することができる。

「ちょっとこわかった」

「けっこうこわかった」

「すごくこわかった」などと段階を踏み、タイトル通りのファイルにそれを収め、記憶の棚に並べられるので、冷静に振り返ることができる。直視することができる。

「あん時すげーーこわかったな~~」などと感想を漏らせるのもその記憶がきちんと処理されてるおかげだ。

記憶を”怖かったアルバム”として手に取り、客観視点で見られるようになった、というわけだ。しかしレベル99の記憶は違う。

 

私たちの脳内で記憶領域の処理を担う海馬さんが、あまりの恐怖に仕事を放棄する。

「うわあああこの記憶怖すぎる持っていたくないあああ!どうしよう!!どうしよう!!!」

「ああ!そうだ!ひとまずこのファイルに挟んでおこう!!見えないように!!(バサバサ)」といった感じで、本来正しくない場所、それも”普段目に入らない場所”にテキトーにツッコんでしまう。

 

その”処理”が行われたことにより、人はひとまず落ち着くことができる。

要するに目の前の敵(レベル99)を倒すことはできていないわけだが、布を頭からひっかぶって、

「あっいない!怖いの見えない。良かった~~」と現実逃避している次第である。

実際は依然としてその敵は目の前にいるし消えていないのだが、一旦の安心は得られるわけだ。



しかし、無造作に突っ込んだファイルは、ふとした瞬間、ちょっとした”(感情の)揺れ”で出てきてしまう。

視界を遮るために被っていた布がズレて、”怖いもの”が目に見えてしまうのだ。

 

いなくなっていた恐怖の対象が突然目の前に現れたら、当然パニックになるし、

その布を”ずらした人間”=自分を恐怖に陥れよう(引き戻そう)としている人間に

怒りを抱いても致し方あるまい。

 

この恐怖から生まれる怒りが”攻撃”という行動をとらせるのである。

そして、その人の感情を”揺らす”ものとは、”否定”である。



  • ”理不尽”な怒り

他人を攻撃する人間の行為や、暴言などは、得てして理不尽である。そして、意味がわからない、通らないし、筋道が通っていない。

少なくともされた側にとってはそうだ。ゆえにされた側としては、

「なんだこのクソヤロウキチガイなの?バカなの?」という感想ぐらいしか浮かばないものなのだが、悲しいことに、攻撃する側にも本人なりの理由がある。



攻撃する人間は、トラウマを抱えた人間だからである。

トラウマができ、それをきちんと処理できなかった人間は、その攻撃性の高さだけが目に付くのでそうは見えないが、内心常にビクビクして過ごしている。

 

本人はその記憶から遠ざかったり、忘れたりしているが、

(何か…何か……忘れているけれど…すごくこわいことがあったような気がする…)

と無意識のうちには思っているし、その言い知れぬ恐怖自体は体に染みこみ刻み込まれている。



だから普通に生きていてもなぜか安心感がなく、常にビクビクしていて周りを気にしている。

不安感から、あらゆる出来事に、過敏に反応してしまうのである。

 

これがトラウマスイッチだ。

 

スイッチが入る要因は、直接的なものとは限らない。

Aさんで言えばお化け屋敷や刃物、刃物を持った人などが、その記憶に関わる主なものだが、それのみならず、”自分を否定する出来事”にも反応してしまう。

 

例えば、他人から話しかけられたり、叱られたり、こうした方がいいのではないか?と意見されたりするだけでも、暴走して、攻撃的になってしまうのだ。

 

なぜなら暴走を起こさせる原因自体はトラウマによるものだが、暴走すること自体の原因は”不安”によるものだからだ。

 

精神の死、その究極は孤独である。この場合、孤独というのは孤立。他者からの否定。他者から”一人ぼっち”に追いやられること。誰も味方がいないこと、である。

孤独は恐ろしい。なぜなら、恐ろしいトラウマ=”死の記憶”は孤独と通じている。むしろ、それ自体が孤独であると言える。

トラウマというのは、理由は何にせよ、自己の人格や存在を否定された、無視されたと感じられた出来事だからだ。

 

だから、自分や自分の意見を否定する、自分の信条、理念、思考を否定すると捉えられることを他人がした時、「こいつはおれを殺そうとしている(孤独に追いやろうとしている)!!」と感じてしまう。

それが他人にとって、単なるアドバイスや意見交換にすぎなくても、本人にとってはそう(攻撃に)見えてしまう。



トラウマの人は、記憶を処理していないことによる”不安状態”が続いているため、精神が安定していない。

し、さらに言うと、本人以外はそう思わないし、忘れているので本人も無意識だが、死に値する出来事があったため、自分の状態は瀕死に近いという体感がある。

 

そのため、少しでも否定=攻撃とみなせる言葉や態度を見てしまうと、

「俺を殺す気か!!!ならてめえを殺す!!!!!」とブチギレてしまうのである。ようするに殺される前に殺してやる、という防衛反応だ。



Aさんは記憶を放置し不安状態に陥っているので、常に何かに脅かされるのではないか、お化け屋敷ではなくとも、「実はみんな刃物を持っていて、自分を殺そうとしているのではないか」という妄想的な恐怖に駆られてしまってもいる。

 

現実でもネットでも、やたら攻撃的な物言いや態度をとる人がいるが、それもトラウマの人だからだ。

その人たちは過去”死に値する恐怖”を植え付けられた、もしくは感じ取ったが、今もってその恐怖に対処していない。そのため、慢性的な不安を抱えている



極端な話(というか、その人の思考が極端になっている)、

「おーい、すみませーん」と話しかけただけでも、

「なんだテメエ!!!」とやたらと強烈な反応をしてしまうのはそのためだ。

 

普通の人が普通に話しかけたという認識でも、トラウマの人、Aさんにはそうは見えない。

「おーい、すみませーん」が

「おおおおおい!!!!そこにいるお前を今から殺しに行くからなああああああああ!!!!!!!!!」に聞こえるのである。

 

それに対して身構えて、

「なんだテメエ!!!」というのは、むしろ正常な反応であり、それは

「うわあああああああこっちくるなあああああ!!!!!」という恐怖の感情に裏打ちされたものでもある。

これは”敵”に対する防御または抵抗という反応だ。それによって、必死に自分の”生を存続させようとしている”のである。

 

これを見て普通の人は、

「えっなんだよ普通に話しかけただけなのに」とか、

「ちょっとこういう意見を言っただけなのに」などと思うのだが、こういう感想はもはや無為である。

これはこっち側の言い方や態度を優しくすれば、丁寧にすればいいという論点の問題ではないのだ。こちら側にとってそれは教養や社会に属する人間の問題であるが、攻撃する側にとっては動物的な生死の問題であって、そもそも一段どころでなく、四段や五段違う土俵にいるのだ。そこで対応の改善を求めても、噛み合わなくて当然だ。

ある物事や言葉、人物に過剰反応をしてしまう人達というのは、”トラウマフィルターによって全員が全員殺人鬼、またはその可能性がある人間”に見えている人たちなのだ。

 

そんな状況で生きていれば、誰かが手を振り上げただけ(自分に対して意見を言う)でも「自分を殺そう(自分の存在を否定しよう)としているのでは?!!」と思っても仕方がない。

 

1の”意見”を10の”攻撃(殺意)”に見なしてしまう精神状態であるから、自分も同じように10の攻撃で返してしまうのだ。

また、その時の人間はわけのわからない理屈を用いて、

「お前は私を攻撃しようとした(私が損をする行いをした)」と責めてくるが、本人もその理屈は何のことやら、わかっていない。

彼らは”刃物を持った人間を前にした”メンタル状態なので、理路整然と、理屈の通ったことを言っているわけもないのだ。

 

・殺されないよう必死になってパニックになっているので、その時やったことや言ったことを覚えていない。

・むしろ、そこでトラウマスイッチが入り、

”死の恐怖を感じた時=子供”の精神状態に戻っており、その際冷静で、まともな思考ができる大人の人格は消失している(引っ込んでいる)。

昨日言ったことややったことを覚えていないので、翌日になって矛盾したことを言ったりやったりする。反省できない。また、反省している人格は大人の人格だが暴れているのは、子供の別人格なので意味がない。

・問題行動を手厳しく指摘しても、注意した人と注意された人自身のストレスによる”感電”(後述する)が起こりむしろ逆効果。より悪化する。



 

 

これは大嶋先生の意見に対して同意したもので(ここに書いている文章は私がちょいちょい変えながら書いているものなので、先生の正式な見解は本を読んでくれ!)

パワハラモラハラ、セクハラも、トラウマによるパニック状態なのだ、と私は確信している。

近年あったわかりやすい例だと、豊田真由子議員の話とかがそうだ。

豊田真由子議員のパワハラ事件についてはググってください)

なぜあの人は暴言を吐き続けたのか?国会で答弁している映像を見る限り、彼女は至って正常な人に思える。実際、その時は普通なのだ。

 

私はあるワイドショーで、運転手?の証言を聞いた。

彼女がある時車の中で突然、

「怖いよー ママー!ママー!ごめんなさい、まゆが悪いの ママー、ママー!」

と泣き出した、という出来事があったそうだ。

思うに、彼女には母親にトラウマを植え付けられた過去があり、それによって退行してしまったのだ。

 

そして、パワハラに至ったのも、スイッチが入ったことによるパニック状態であったことが考えられる(後述するが、その時の威圧的な態度は、トラウマを与えた人間=ママに似る)

 

内容から察するに、彼女は何か悪いことをしてしまったか、求められていることを十分にできなかったと考えられる。

そこに対して彼女の母親は相応ではない罰を与えた。体罰か精神的な罰かはわからないが、とにかくそれは彼女にとって死に匹敵するトラウマを与えた。

 

これは私の個人的な体験、体感があるのでわかるが、それ以降彼女は完璧に何かをこなすことや、誰かから何か言われたことに、”100”で答えようと苦心したと思われる。

 

叱られない悪い子に、ということだ。いつも100点満点を出さなければならず、もしそこから外れた場合、”恐ろしい”思いをしなくてはならない。それは死ぬほど怖い思い出だった。

 

彼女の場合、完璧にやらなければならない、というのが、議員の”仕事”に現れたのだ。

支援者へのメッセージカードの宛先を間違えた、というだけでなぜそれほどまでに激怒しなくてはならないのか?

なぜなら、間違えたら殺されるから。

何か不出来であった場合、自分が合格水準に足らなかった場合、母親から”死に匹敵するひどい思い”をさせられる。死んでしまう。こわい。

だから、その繋がりうることをする相手にキレる。ブチ切れる。

それは、単に仕事でミスをしたからという理由ではない。

お前のせいで私は死にそうになった、殺されそうになった!!という強い訴えなのである。

 

また、宛先を間違えた支援者から嫌われてしまうというのも恐怖だ。

それは自分を孤独に招く=死だし、母親に嫌われる=悪いことをして怒られるというのと重なるだろう。

 

テレビの取り上げ方として、だいたいこの人は『滑稽』な人間として描かれていた。

変な人、変なキレ方してるオバサン(笑)、バカだねー、といった感じ。

 

私も最初、バカだねーこの人、って呆れ半分、バカにし失笑半分、思って見ていた。

しかし、あるワイドショーで、一つだけ、この彼女が子供のように泣いていた、というエピソードを取り上げていた。

私はそれを聞いて考えが変わった。その時までに多少心理を勉強していたのだが、人の偏見というのはひどいもんだと思った(自分に対して)。表面的に出てきて、見えたことだけで相手を判断してしまった。それだけで相手を見ることは出来ないというのに。

(ちなみにその時、中野信子が豊田議員の退行と彼女の精神について触れていて、とても議員をできるような状態ではないのではないかと思うと、憂いておられて、その時の汲み方と表情が忘れられなかった。この人に対してとても好感を抱いた。)

 

テレビやそれを見る人間は、取り上げるだけ取り上げて、バカだねー何でこんなことするんだろうねーおかしな人だねーこんな人が議員だなんてけしからん!と叱責して終わりである。そこの裏にある、人間に心理や感じている苦しみのことなど、考えないしどうでもいいのだ。

 もちろん、暴言を吐く行為が良いと言っているわけではない。豊田議員にも自分のこころを変える余地があったはずだから。

 けれど、自分は正常でこの人は異常で、だから異常なお前のことは汲まないし、お前の心など知らん、という”正常者”が”異常者”をより以上に仕立て上げてゆくのではないかと私は思った。

そういう人間は、自分が害を被ったところで初めて、あいつは異常だ!と声を上げるが、私は正常者であり被害者であるという認識を持つだけで、何もすることはない。ただ、自分が損をした時だけ大声を上げ、日常で誰を助けることもなく、優しくすることもなく、思い巡らすこともない。”異常者”のことだけは異常者扱いで、責め立ててスッキリする。

 

なぜ?とは思わない。自分は何をすればいい?何ができる?どう生きればよいか?ではない。何もしない。

しかし、そう何かを、一方的に責める彼らもまた、死という孤独を抱えているのかもしれないと思うと、また話が深いところへ行く。

異常者も正常者もきっとどこにもいない。

 

私は人間がとる行動には必ず意味があり、その『裏』もあるのだと、必ず順序をとった仕組みがあるのだと知っていたので、『退行』の話を聞いてかろうじて考えを変えることができたが、まだ考えなければならない、と思った。



考えやすい話を出してみたが、いかだだっただろうか。これでだいたい、なぜあの人は攻撃的なのか?という疑問はだいたい解消されたと思う。

次はまた踏み込んで話を進めようと思う。追記する。今日はここまで。








恐怖、および感情の全ては、行動を起こしたことによって、その感情自体が

増長されるため、